無職就職
挨拶の師匠である無職太郎さんが、就職太郎として戻ってきてくれないかと願っている無職もぐさです>挨拶
勘違いかもしれないけれど、無職太郎さんがブログを書かなくなった理由が解ったような気がする。震災から数日後に、ブログの更新が途絶えてしまったため、震災のことを気にし過ぎてしまったのではないか、と考えたこともあったけど、震災の数日前に、バイトを辞めることになるかもしれない、長く続けられる仕事ではない、と珍しく心情を吐露されていた。仕事が上手くいかない、あるいは辞めていたのなら、ブログどころではないと思うのだ。
僕の場合、鬱々な状況のときや、むかーっとしたときに、それをブログに書いてしまうけど、無職太郎さんは、そのような暗い記事を書くことをしなかった。アルバイトで節約生活を続け、貧しさは感じたけれど、決して、暗いとは思わなかった。むしろ、明るさや楽しさ、豊かさが文面から滲んでいた。そうでなければ、僕がこれほどまで気に掛けることはない。
自分が仕事を辞めてみて、確かにこれでは書けないな、と思った。お前はバカみたいにブログを書いてるだろ、と思われるかもしれないが、無職になってからの出来事は、ほんの少ししか書いていない。当初は、3カ月分の生活費は捻り出せるので、次の仕事が見つかるまでの出来事を、日記として書こうと考えていたけれど、思うようにはいかなかった。
例えば、派遣会社に初めて登録して、説明会を聞いて、他の参加者たちを見て、これまで僕が考えていた派遣社員とは、かなり様子が違っていた。そのことを書こうとしていたけれど、それは結局書けなかった。他にも、無職だからこそ解ったようなこともあるのだが、それらも同じく、書くことはできなかった。
たぶんこれは、波のようなもので、履歴書書きまくり、応募しまくり、面接受けまくり、と続けられているときは、その勢いで、ブログもがーっと書いてしまうけど、それが途切れると、こんな鬱々とした状況をブログに挙げてどうするのだ、と立ち止まって考えるので、現状を書けなくなるのだろう。その代わりに書かれるのが、本の感想だったり、実にくだらない記事だったりする。記事トーナメントに参加を決めたのも、同様の理由に拠る。
暗い出来事を書けるのは、少なくとも現状が、それよりも明るいときに限られるようである。暗いときには、無理にでも明るくしようとして、ブログの記事がおかしくなる。冒頭の挨拶が良い例で、次の仕事が決まったら、挨拶なんてほとんど書かなくなるだろう。挨拶を書くことによって、しんどさを紛らわせようとしているのだ。人生は暗くても、せめてブログは明るくしようと。
そりゃそうだろう、現状が暗くて、ブログも暗くては、いったいどこを明るくするのか。どこかで無理やりにでも明るさを出さなければ、とてもじゃないがやっていけない。ブログ村に、無職日記というカテゴリがあるけれど、自分の現状を見つめて、正面から書くことができるとは、とんでもない人たちだと思うのだ。僕が鬱々とした日記を書いても、それは他人に見せられる範囲の鬱々で、すべてを曝け出すなどできない。家族も友達も近くにいない僕が明るく振る舞えるのは、ブログ上しかないのである。そこまで考えて、無職太郎さんも、このように考えていたのではないか、と一方的に思ったのだ。
切羽詰まっているときに、ブログなんて書けねーよ。
人は人に影響を与えることもできず、また人から影響を受けることもできない。
勘違いかもしれないけれど、無職太郎さんがブログを書かなくなった理由が解ったような気がする。震災から数日後に、ブログの更新が途絶えてしまったため、震災のことを気にし過ぎてしまったのではないか、と考えたこともあったけど、震災の数日前に、バイトを辞めることになるかもしれない、長く続けられる仕事ではない、と珍しく心情を吐露されていた。仕事が上手くいかない、あるいは辞めていたのなら、ブログどころではないと思うのだ。
僕の場合、鬱々な状況のときや、むかーっとしたときに、それをブログに書いてしまうけど、無職太郎さんは、そのような暗い記事を書くことをしなかった。アルバイトで節約生活を続け、貧しさは感じたけれど、決して、暗いとは思わなかった。むしろ、明るさや楽しさ、豊かさが文面から滲んでいた。そうでなければ、僕がこれほどまで気に掛けることはない。
自分が仕事を辞めてみて、確かにこれでは書けないな、と思った。お前はバカみたいにブログを書いてるだろ、と思われるかもしれないが、無職になってからの出来事は、ほんの少ししか書いていない。当初は、3カ月分の生活費は捻り出せるので、次の仕事が見つかるまでの出来事を、日記として書こうと考えていたけれど、思うようにはいかなかった。
例えば、派遣会社に初めて登録して、説明会を聞いて、他の参加者たちを見て、これまで僕が考えていた派遣社員とは、かなり様子が違っていた。そのことを書こうとしていたけれど、それは結局書けなかった。他にも、無職だからこそ解ったようなこともあるのだが、それらも同じく、書くことはできなかった。
たぶんこれは、波のようなもので、履歴書書きまくり、応募しまくり、面接受けまくり、と続けられているときは、その勢いで、ブログもがーっと書いてしまうけど、それが途切れると、こんな鬱々とした状況をブログに挙げてどうするのだ、と立ち止まって考えるので、現状を書けなくなるのだろう。その代わりに書かれるのが、本の感想だったり、実にくだらない記事だったりする。記事トーナメントに参加を決めたのも、同様の理由に拠る。
暗い出来事を書けるのは、少なくとも現状が、それよりも明るいときに限られるようである。暗いときには、無理にでも明るくしようとして、ブログの記事がおかしくなる。冒頭の挨拶が良い例で、次の仕事が決まったら、挨拶なんてほとんど書かなくなるだろう。挨拶を書くことによって、しんどさを紛らわせようとしているのだ。人生は暗くても、せめてブログは明るくしようと。
そりゃそうだろう、現状が暗くて、ブログも暗くては、いったいどこを明るくするのか。どこかで無理やりにでも明るさを出さなければ、とてもじゃないがやっていけない。ブログ村に、無職日記というカテゴリがあるけれど、自分の現状を見つめて、正面から書くことができるとは、とんでもない人たちだと思うのだ。僕が鬱々とした日記を書いても、それは他人に見せられる範囲の鬱々で、すべてを曝け出すなどできない。家族も友達も近くにいない僕が明るく振る舞えるのは、ブログ上しかないのである。そこまで考えて、無職太郎さんも、このように考えていたのではないか、と一方的に思ったのだ。
切羽詰まっているときに、ブログなんて書けねーよ。
人は人に影響を与えることもできず、また人から影響を受けることもできない。


